murawaki の雑記

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Cia-Cia 語のハングル表記がひどい

インドネシアのチアチア (Cia-Cia) 語の表記にハングルが採用されたというニュースが韓国で話題になっていて、AFP にも記事が出ていた。Cia-Cia 語がどんな特徴を持つ言語なのか気になるところだが、韓国のニュースは調べた限りでは全然言及がない。どうやら彼らは「ハングルの優秀性」を繰り返すのに忙しくて、そこまで興味が及ばないようだ。そこで自分で調べてみた。結論を先に言うと、ハングルの適用の仕方が無理矢理でひどい。

Cia-Cia 語に関する基本情報は、定番の Ethnologue に載っている。話者はインドネシアのスラウェシ (Sulawesi) 島の南東にあるブトン (Buton) 島の南部に住んでいる。話者数は韓国のニュースだと 60K だが、SIL の情報では 79K。系統的には、かの有名なオーストロネシア語族に属す。

知らない言語の特徴をつかむには言語学大辞典が基本だが、Cia-Cia 語は項目が立っていない以前に索引にもない。分類上位の「ムナ・ブトン (Muna-Buton) 諸語」の項目はあるが、言語的特徴の記載はない。*1近縁の言語としては、「ウォリオ (Wolio) 語」と「ムナ (Muna) 語」 (補遺に収録) の項目が立っている。

仕方がないので旧宗主国の文献にあたる。

van den Berg, René (1991). "Preliminary notes on the Cia-Cia language (South Buton)." In Harry A. Poeze and Pim Schoorl (eds.), Excursies in Celebes, pp. 305-324. Leiden: KITLV.

本の名前や大半の収録論文はオランダ語。問題の論文はさいわい英語。しかし、表題の通り本当に preliminary notes。phonology はある程度真面目に記述しているけど、morphology はかなり端折っていて、近縁の言語との違いを主に述べる。syntax をまったく説明せず、最後に短い民話を載せている。つまり、Muna-Buton 諸語がわかっていないと言語の全体像がわからない。ただし、正書法を議論するには phonology と morphology が分かれば十分。

まず音節。とりえる音節型は V と CV の 2 種類のみ。日本語以上に単純。例えば buea は bu.e.a という 3 音節。ただし例外があって、語末の mo と mu は、任意で母音を落とし、前の音節とくっついて閉音節を作り得る。例えば ka'ana-mu は ka.'a.nam と発音されることがある。アクセントは弁別性を持たず、最後から2番目の音節に stress が置かれる。ここまでは普通のハングルで対応できる。

問題は音韻体系。目立つ異音はないようだが、音価はいい加減かもしれない。IPA を使うのも面倒なので、論文にならって初出以外は普通のラテン文字で表記する。

  • 母音は標準的な a, e, i, o, u の 5 個。ハングルの基本字母だけで対応できる。問題は子音。
  • 破裂音には有声・無声の対立がある。p, t, (c), k に対する b, d, j, g。もちろん朝鮮語は有気・無気の対立。しかも、さらに入破音 ɓ (bh), ɗ (dh) が対立する。入破音は割と珍しい子音で、もちろん朝鮮語にはない。音価を無視すれば、平音、激音、濃音の 3 系統にあてはめられるかもしれない。
  • 鼻音。m, n, ŋ。問題は ŋ (ng)。これに対して破裂音には声門閉鎖の ʔ (') もある。ngo.'o のような語があるから、ㅇ だけでは対応できない。
  • さらに前鼻音化子音という強敵がまちかまえている。鼻音が有声・無声の破裂音の前につく子音。無声破裂音の系列が mp, nt, nc, ŋk (ngk)。有声破裂音の系列が mb, nd, ŋg (ngg)。これらは二重子音ではなく、音韻的に一つの子音。しかも、nc 以外は語頭にも出現する。例えば mpana, ndoke。
  • s, h は問題ない。半母音 w と (y) はハングルにおける扱いが微妙だけど、まあ問題ない。
  • 最後の関門が l と r の対立。もちろん語頭にも立つ。le'e や rea のように。

ここまで調べた限りでは、魔改造しないとハングルで Cia-Cia 語を表記できそうにない。では、実際にはどうしたのか。体系的に説明したページがあればよいのだが、見当たらない。代わりに、中央日報の記事に載っている比較的大きな教科書の画像を見る。Cia-Cia 語自体は辞書がないので解読できないが、音韻体系ならある程度わかる。

  • 初声の ㅇ は声門閉鎖を表すらしい。前置詞 i が 이 ('i) となっている。
  • van den Berg は 5 母音とするが、ハングルでは ㅏ (a), ㅔ (e), ㅣ (i), ㅗ (o), ㅜ (u), ㅡ (ŭ) の 6 種類が確認できる。これはどういう解釈なのか。実際に 6 母音が音韻的に区別されるのか? それとも異音を書き分けているのか? ㅡ (ŭ) はダミーだった (後述)。
  • ニュースで言及されていた ㅸ は w を表すらしい。van den Berg の説明では、IPA 表記はないが、"bilabial approximant without lip-rounding but light friction" ということだから。
  • ㅂ (b), ㅍ (p), ㅃ (bb) が確認される。おそらく b, p, bh を表している。ㅃ が頻出。
  • ㄷ (d), ㅌ (t), ㄸ (dd) が確認される。おそらく d, t, dh を表している。ㄸ が頻出。
  • ㅈ (j), ㅉ (jj) が確認される。おそらく j, c を表している。ㅊ (c) は使わない? c は無声破裂音のはずだが、なぜか ㅉ をあてる。
  • ㄱ (g), ㄲ (gg) が確認される。おそらく g, k を表している。ㅋ (k) は使わない? k は無声破裂音のはずだが、なぜか ㄲ をあてる。
  • ㄹ (r) が r を、ㄹㄹ (r.r) が l を表すらしい。ただし、ㄹㄹ は 을랄로노 ('ŭr.rar.ro.no) のように終声 + 初声とし、音節をまたぐ表記になっている。lalono という 3 音節のフレーズなのに 4 文字で表記されている。韓国語だと、ㅡ (ŭ) は韓国語では許容されない母音連続を持つ外来語を移すときに使われる (日本語で star を「スター」と写すのと同様)。これはまったく韓国語の都合で、Cia-Cia 語の音韻体系を無視した暴力的な措置。本当なら l にあたる字母を作って (あるいは古い ᄙ を最利用して)、3 文字で表記しなければならない。
  • ㅁㅃ (m.bb), ㄴㄸ (n.dd), ㄴㅉ (n.jj), ㅇㄲ (ng.gg), ㅁㅂ (m.b), ㄴㄷ (n.d), ㅇㄱ (ng.g) が確認される。おそらく mp, nt, nc, ngk, mb, nd, ngg を表している。ㄹㄹ (r.r) と同じく音節をまたいでおり、Cia-Cia 語の音韻体系を無視した醜い表記。本当ならどれぞれに対応する字母を新しく作らなければならない。
  • ng をどう処理しているのか?
  • 바짜안 (ba.jja.'an), 다라딴 (da.ra.ddan) のように語末に終声の ㄴ (n) が確認される。語末の m か?
  • ᄫᅡᆨ뚜 (wak.ddu) とある終声の ㄱ (g) が謎。ㄴ の間違いか?
  • 삼빌 (sam.bar) の ㄹ (r) も謎。

いろいろ疑問は残っているが、それでも明らかなのは、ハングルの都合を優先してCia-Cia 語の体系を無視しまくっていること。これはひどい。ひどすぎる。

ハングルの特徴は突き詰めれば、(1) 字母を合成して音節文字を作る、(2) 字母も構成的に作るという 2 点。しかし、わざわざ音節文字を作る必要性が感じられない。こんなやっつけ仕事をするなら、無理に音節で構造化せず、ラテン文字のように直列化した方がずっと良い。また、字母が体系的というのも、ハングル制定当時の朝鮮語や、当時の理想化された漢語音について言えるだけで、Cia-Cia 語の音韻体系をうまく表してはいない。

とにかく現代韓国語表記に用いられるハングルの範囲内で無理やり表記するという方針なら理解できなくもない。しかしそうではなく、古い字母 ㅸ を採用している。たちが悪い。計算機上での扱いが面倒だから。周知の通り、ハングルは字母から規則的に構成されているにも関わらず、その組み合わせ 11,172 文字を Unicode に登録するという暴挙を行っている。しかし、その組み合わせに ㅸ は入っていない。代わりに初声+中声+終声の組み合わせで表現しなければならない。コードで表現するだけなら簡単だけど、レンダリングが面倒だし、入力システムなどもちゃんと作らないといけない。素直にラテン文字を採用しておけば、特に問題なく計算機上で扱えたのに。

2009年11月8日 追記: WikipediaWiktionary に Cia-Cia 語についていろいろ書いている韓国人らしき人がいる。しかし、引いているソースが韓国の新聞とかブログばかり。伝言ゲームのようで信用できないが、それらの情報によると ㅡ は語頭の l の表記に使うらしい。例えば lima は 을리마 ('ŭr.ri.ma) となる。おそらく語頭の前鼻音化子音も同様に処理するのだろう。ㅡ (ŭ) を挿入して外来語の重子音などを写すのは、まったく韓国語の都合。Cia-Cia 語で用いる合理的な理由などない。2音節の語を3文字で書くなんて気持ち悪い。まさか先祖がえりして脱母音記号ということもあるまい。

2011年10月11日 追記: しばらく音沙汰がなかってけど、最近またニュースになっている。経済援助を餌にハングルをゴリ押ししたのに、例によって肝心の経済援助を渋って怒らせたらしい。

2012年10月9日追記: 韓国人団体が金がないからバウバウ市から撤収するというニュースが流れてきた。この機会にこの悲惨な表記法が滅ぶことを願う。

朝鮮語学の趙義成氏が『チアチア語のハングル表記体系について』(2011) という小論を書いているのを見つけた。大筋では私と同意見だけど、専門家らしく正確に議論しているのでおすすめ。

*1:言語学大辞典の「ムナ・ブトン (Muna-Buton) 諸語」の項は、Cia-Cia 語を「南ブトン語」と呼んでいる。Noorduyn の A critical survey of studies on the languages of Sulawesi によると、この名称は Esser の言語地図に記載されていたものらしい。