murawaki の雑記

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接続詞から見る日本語の付属語の独立性

日本語の接続詞はかなり変わっていて、付属語の独立性の高さを示しているのではないかという話。いい加減な議論。そして未整理。

前提。すべての接続詞について議論するわけではない。ここで扱う接続詞は (1) 接続助詞や判定詞 (『基礎日本語文法』の区分) に由来する。(2) 文と文を接続する。たとえば以下のようなもの。「かといって」、「が」、「けど」、「けども」、「けれど」、「だから」、「だが」、「だけど」、「だって」、「で」、「ですから」、「では」、「でも」、「と」、「とすると」、「とはいえ」、「なので」、「なのに」、「ならば」、「にもかかわらず」。

そもそも接続詞の由来は多様。たいていは、歴史的には、他の品詞の形態素やフレーズが接続用法で固定して使われるようになって成立している。だから元の品詞によって分類できる。指示詞 (+付属語) 由来の「それで」、「そのうえ」。動詞表現由来の「したがって」など。名詞表現由来の「おまけに」、「ゆえに」など。

接続詞が接続する単位もいろいろ。語と語を接続する、「AやB」 (実際には接続助詞に分類される) など。今回扱うのは文接続。文頭に立つ。

どこが変わっているか。付属語 (列) が単独で使われていること。「とすると」や「にもかかわらず」の存在を考慮してより正確に言うと、本来自立語に後続する付属語 (列) が自立語なしに使われていること。そもそも付属語とは何かという問題もあるが、ここでは厳密に定義しない。

変わっていることを示すために他の言語を考える。モンゴル語。そもそも日本語ほど文頭に接続詞を立てない気がするが、いくつか抜き出してみる。

  • 「が」、「けど」、「だが」、「だけど」、「でも」にあたるのは тэгсэн ч гэсэн。直訳しにくいけど、「そうしても」みたいな意味。
  • 「だから」、「ですから」にあたるのは тэгэхээр。「そうするように」、「そうすると」。
  • 「とはいえ」は гэсэн ч гэсэн。これはそのまま。あるいは тийн байвал。「そうであれば」。
  • 「で」はニュアンスが難しいが、тэгээд。「そして」、「それから」。

適当に挙げてみたが、共通するのは тэгэх (そうする)、тийн (そうだ)、гэх (言う) のような自立語に由来すること。純粋な付属語が文頭に立つ例が思いつかない。そもそもほとんどの付属語は、前の自立語の影響で形が変わる。たとえば тэгэхээр-хээр の場合、-хаар/-хээр/-хоор/-хөөр という変異形をもっており、どれが基本形というわけでもない。そんな感じだから、自立語なしに使うという発想がそもそもなさそう。日本語の場合、連濁を除くと、付属語が形を変えることはまずない。思いつくのは、動詞のタ形ぐらい。

しかし、よく考えてみると、日本語の接続詞の構成要素に対応するモンゴル語は付属語的でない気もしてくる。「だから」や「なので」の「だ」や「な」は判定詞、つまりコピュラだが、モンゴル語の場合、コピュラはデフォルトでは何も置かない。「AはBだ」は「A B」となる。否定や過去のように色がついてはじめて、бишбайсан が後ろに付く。このうち、биш は、後置詞という扱いになっているけど、名詞的な性格を残している。例えば、бишгүй (なくない) で「沢山の」という意味になる。そして байх は (補助) 動詞。「とはいえ」のような引用の「と」は、гэж。これは動詞 гэх (言う) の活用形。やはり動詞的な性格を残している。こういう風に摩耗しきっていない自立語が文法的に使われるのは、付属語が従属的すぎて転用しにくいからだろうか。

他の言語はどうか。韓国語について、以前留学生に聞いてみた。そういう表現はないとの答えを得た。難しい質問なので意図がちゃんと伝わったか怪しいけど。日本好きの韓国人が、戯れにそういう日本語直訳の表現を使うことはあると付け加えた。残念ながら具体的に何と言うのかは覚えていない。

補足。よく考えたら、付属語が独立して文頭に立つのは接続詞に限らない。「だね」、「だよね。」とか、最近よく聞くようになった「ですよねー。」など。モンゴル語だと、この用法でも、間投詞の затийм を使う。やはり付属語ではない。