murawaki の雑記

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満洲語で動詞連体形がそのまま別の動詞の目的語になる場合についての落ちのない考察 (未整理)

満洲語を和訳するとき、擬古文で訳せばあたると歴史系の人はよくいう。うろ覚えだけど今西春秋あたりがそう書いていたはず。それがどうしてか真面目に考えたことがなかった。擬古文だと訳しやすい構文は何なのかと考えていて、動詞連体形がそのまま別の動詞の目的語になる場合がそうではないかと思いいたった。しかし、ちゃんと調べれば、既に誰かが研究してそう。あと、何でもいいので、まずはこの現象に短い名前を与えたい。

例文から入る。

  • abdurman burut de jailame genehe be hojijan horiha. (Li, 2001:110)
    • Abdurman (の) Burut に逃げ行きたるを Hojijan 捕らえつ。
    • Abdurman が Burut に逃げて行ったのを Hojijan が捕らえた。

いきなり脱線。満洲語の主語は基本的に無標で、現代日本語に訳すには、適当に「は」や「が」を補わなくてはいけない。擬古文だと無標でもそれっぽい。でも、この例文のように従属節まで無標だと不自然かもしれない。

本題に戻る。注目すべきは genehe be horihagenembi (行く) が horimbi (捕らえる) の対格に入っている。現代語だと形式名詞「の」を入れないと不自然だけど、擬古文だとそれっぽく訳せる。

しかし考えてみると不思議な構文ではある。「行く」という動作自体が「捕らえる」の対象というわけではなく、「行く」の動作主である Abdurman が「捕らえる」の対象。動詞連体形が表す意味を動作から動作主に拡張されている。それが、満洲語と擬古文ではできて、現代日本語ではできない、あるいややりにくいということだろうか。

この例文は以下のように言い換えられるはず。

  • ? burut de jailame genehe abdurman be hojijan horiha.
    • Burut に逃げて行った Abdurman を Hojijan が捕らえた。

こう言い換えれば、「捕らえる」の対格が Abdurman になる。ではこういう構文を実際に見かけるかというと見ない気がする。こういうやたら長い OV の連体節を作って S に係らせるという構文は好まれないように思う。母語じゃないから直感が働かないが。満洲語だけでなく、昔の日本語もそうではないか。こういう構文が日本語で使われるようになったのは、洋文の関係節を長々とひっくり返して訳すという悪習からではないか。文語コーパスに構文情報が付いていれば、こういう仮説も検証できそうなものだが。

別の例文。

  • hūlha i ukara be seremšeki (Li, 2001:110)
    • 賊の逃ぐるを見張りたし。
    • 賊が逃げるのを見張りたい。

これぐらい短ければひっくり返してもいけそう。

  • ? ukara hūlha be seremšeki

この例文だと、「賊」を「見張る」とも解釈できるし、「賊」の「逃げる」という動作を「見張っている」とも解釈できる。日本語でも「見る」系の動詞はそんな感じ。「彼女が泳ぐのを見た」と「泳ぐ彼女を見た」とか。

しかし、「見張る」の動詞接辞を変えて「見張った」とすると微妙。

  • ? hūlha i ukara be seremšehe
  • ? ukara hūlha be seremšehe

「賊が逃げる」というイベントが実際に発生したか。前者はどちらもありそうだけど、後者は発生した方に傾く気がする。単なる勘違いかもしれない。

以下の例文はひっくり返すと不自然なはず。

  • meni bucere be guwebumbi (満文老档ベースの作例)
    • 我々の死ぬるを免ずる。
    • 我々が死ぬのを免じる。
  • ?? bucere membe guwebumbi

「<人> be guwebumbi」という用例は多数あるけど、bucembi を入れるなら bucere be guwebumbi しか選択肢がないように思う。「死ぬ」という動作と「許す」という動作の結びつきが強いから。これは日本語でもそうだろう。従属節の動詞を V1、主節の動詞を V2 としたとき、V1 と V2 の結びつきが強い場合には、満洲語でも日本語でも V1 be V2 という形しか取れない。

どうしてこういう構文が使われるかというと、結局のところ SOV の語順を守りたいからではないか。O が長いときに OSV となることは許される。でも、長い OV で S に連体修飾するのは好まれない。旧情報と新情報みたいな問題が絡んでいるかもしれない。もう一つ、満洲語では (特に主節で) 主格が無標だから、語順に若干の制限が生じているのかもしれない。全然未整理。

満洲語と擬古文だと動詞連体形がそのまま対格に入るけど、日本語では形式名詞「の」の補助が必要。形式名詞「の」を使う構文自体が、書きことば、特に論文などで使う改まった書きことばだとあまり好まれないように思う (要検証)。でも、洋文の関係節をひっくり返す方式で従属節の主語を後ろに持ってくるよりも、SOV の語順を守る方が良さそう。