murawaki の雑記

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文学部の潰し方

表題は釣り。国立文系を潰そうという文科省の通知*1 が先月 (2015年6月8日) 話題になった。(人) 文系といっても色々あるが、経済、法、教育等は接点がなさすぎて想像しにくい。文学部に絞って滅ぼし方を考える。あくまで思考実験。対策を考える足しになるかもしれない。大学最大の福利厚生は文学部図書室を気軽に利用できることだと思っている程度には文学部を愛している。*2

どうすれば潰せるか。文学部の業務が無価値であると示せば良い。価値のあるものは、より良い代替物を示せば良い。

大学の2大業務といえば研究と教育。*3先に研究から片付ける。

文学部の研究に価値はあるか。個人的には、自分の研究は文学部の (あるいは文学部っぽい) 研究の成果に依存している。それ以外にも、趣味で追いかけている分野もいくつかある。このあたりは潰れたら私が困る。他は、何の価値があるのか分からない分野もあるし、あるいは積極的に潰すべきだと思っている分野もある。まあ、私の価値基準が世の中一般からかなりずれていることは自覚している。私が評価しない分野を評価する人もいるだろうし、まったく価値を見出さない人もいるだろう。潰す側は当然価値を見出していないのだろう。とりあえず研究は無価値だとみなして先に進める。

残りは教育。専門科目と教養科目にわけて考える。文学部を潰そうというのだから、当然文学部の専門科目は不要となる。残りは教養科目。数学科は他学科の数学教育を請け負うことで予算を獲得しているという話 (米国の?) がある。文学部も教育を盾に生き残るという戦略が考えられるかもしれない。

しかし、振り返ってみると、京大工学部時代の自分が受けた文系教養科目の担当教員はみんな総人 (旧教養) の先生だった気がする。実は文学部討滅は既に達成できているのではないか。とりあえず欲をだして、総人の文系教員の首も狙うことにする。

大学の文系教養科目に価値はあるのだろうか。自分の過去を振り返ってもよく分からない。少なくとも、より良い代替物を示せば、このゲームは勝てそう。そのために、まずは現状の弱点を探してみる。

素朴に思うのは、教養科目は標準化できそうだということ。高校教育の延長である。専門科目 (たとえば機械学習) のように、5年で内容が陳腐化することはない。にもかかわらず、現状では、能力にばらつきがある個々の教員が1から10まで準備している (ように見える)。属人的努力は根本的解決を遠ざけるのでたちが悪い。個々人が竹槍を磨いたところで、組織が戦闘機を作って攻めてきたら勝てない。

その戦闘機候補として考えているのが MOOC。組織によって棲み分けていた教員を横に並べて競争させる。すると、一部のスターだけが生き残って残りは死ぬ。そうして生き残ったスターのコースが競争相手となる。大量生産なのでコスト面では勝負にならない。もちろん MOOC には欠点がある。焦点は、欠点を差し引いても、なおも上回る価値を持つと示せるか。

とりあえず MOOC の欠点を挙げてみる。まずは interactive 性の欠如。あるいは質問応答の難しさ。議論用の forum を作ったりして、いろいろ工夫しているようだが、根本的には解決していないように見える。次は credit の問題。自動採点でできることは限られている。人手で採点するとスケールしない。このあたりの課題が解決できれば勝てる。Facebook の deep な質問応答が劇的に進化するとか? まさか。

もう一つは言語障壁。いま MOOC で公開されているコースは、英語による講義。他の言語は翻訳。翻訳が敬遠される可能性はある。しかし、言語障壁は一時しのぎにすぎない。日本の相対的国力が急激に低下している以上、言語障壁は長くは持たない。現状ですでに、研究成果を英語で発表しなければ、存在しないのと同じである。英語に切り替えるタイミングが早いか遅いかの違いでしかない。むしろ英語であることが評価要素となる可能性すらある。

言語障壁の本丸は語学。普通の MOOC は語学が手薄のように見える。Coursera の category に Language はない。edX は Language という subject が用意されているが、コースは少ない。そもそも問題の性質上、翻訳しても意味をなさない。

語学はそれ専門のサービスがある。昔からそれこそ星の数ほどある。その中でも、duolingo大学のコースワークの体裁を整えて攻めてきそうな雰囲気を漂わせている。

語学のもう一つの特殊性は、普通の講義だけでなく、CALL と称して、計算機を利用する講義が昔から行われていること。その点、他の科目よりも先進的だったのかもしれない。しかし、現状ですでに、duolingo と直接的に競合していることを意味する。早く対策をうたないと、CALL は赤子の手をひねるように潰されそう。しかし、そういう危機感は私の観測範囲では見えない。

考えてみると、潰す側の方が潰される側よりも権力を持っている。潰す側が代替物の優位性を示す必要はない。潰される側が自己の優位性を示せなければ潰されるのである。

その意味で、教育の良さを客観的に表す評価尺度の設計は重要。評価尺度を制するということは、ゲームのルールを決めるということ。その点 duolingo は抜かりない。自前で test center を作って、コスト面での優位性と、TOEFL スコアとの高い相関を主張している。このまま行けば、文学部側は、競合相手自身が作った評価尺度にしたがって優位性を主張しなければならなくなる。

これも先月 (2015 年 6 月) に聞いた話だが、Educational Data Mining という学会があって、今年の会議で 8 回目になるそうである。予稿集をざっと眺めた限り、そこまで驚くような成果があがっているわけではない。しかし、重要なのは進歩の枠組みに乗せてしまったということ。教育は、農業のように同じ作業の繰り返しだと一方が思って田植えをしているところに、ドローンを導入して無人化するとかいろいろ仕掛けているのである。時間とともに差が開いて、いずれ取り返しがつかなくなる。

これまた先月 (2015 年 6 月) に聞いた話だが、Deep Knowledge Tracing と称して、recurrent neural network で knowledge tracing をやった研究が arXiv に投稿されていた。*4 要するに、(-0.5, 0.2, ... 0.9) みたいな謎のベクトルを使うことで、ある時点で受講者が何をどの程度理解しているかが推定できる。これを応用すれば、どういう順番で課題を提示するかを最適化するといったことが可能になる。文学部の教員は、deep learningバズワード化していることは知っていても、自分には関わりのないことだと思っていそう。しかし、deep learning 勢は既に教員の首にも狙いを定めている。

評価を行うためにはデータが必要となる。評価モデルをまともに動かそうと思ったら、1 科目あたり、少なく見積もっても 1,000 人分ぐらいは必要だろう。個人の努力ではどうにもならない。組織的に体制を作れるかにかかっている。個人主義の日本ではここがどうにもならず、再び敗戦を迎えることになるのだろう。

*1:柄にもなく赤旗を引いてみる。ちょっと探しただけでは、通知の原文が見つからない。どこかに全文が公開されていないのか。

*2:京大にいたころは、研究室の隣の建物が文学部図書室 (雑誌棟) という天国に近い環境だった。九大では片道1時間程度かかる別キャンパス。しかも、図書の取り寄せ貸出を依頼するには Excel シートに入力しないといけないという謎の因習が残っている。

*3:私の観測範囲では、他にも、学内ネットワークの管理業務がある。文学部にこういう特殊な業務はあるのだろうか。

*4:評価データとして数学を使っているのはわかりやすいからだろう。数学は課題ごとの独立性が強い。微分をやっても同時に積分ができるようにはならない。語学は課題の依存関係がもっとごちゃっとしていて難しいし、面白いのではないかと推測する。