murawaki の雑記

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対人行動の普遍性と個別性

かつて同じ時期に同じ研究室にいた人が、人間の能力について最近楽しそうに書いている。触発されて私も書いてみる。彼の焦点は対人行動の普遍性、というか生得的能力にある。私はむしろ個別性に興味がある。この世界には異なる文化が存在する。同じ人間であっても、育てる環境によって異なる行動規範を持つにいたる。人間はどうやって適応しているのか。

とりあえず検討すべき問題を書いてみたものの引っかかる。「行動規範」という用語がいまひとつ。人間が少数の規則を演繹的に適用して行動しているように聞こえる。そうとは限らないし、おそらくそうではないだろう。中で何が起きているかによらない用語が必要。人間に事例を与え続けたら、未知の事例に対しても適切に行動できるようになるという現象だけを指したい。ひとまず代わりに「行動能力」と呼ぶことにする。私の見方は完全に言語からの類推だが、世の中には対人行動を直接研究している心理学の人がいるはず。今回はそういう研究を調べずに、思いつきを書き散らす。

なぜこの問題を考えるか。ひとつには、自分の行動能力がいまひとつだと認識しているから。対人行動が表層的な事例ベースになっていて、あまり汎化できてないような気がする。だから例外に対処できない。あらかじめ事例をためていない場合は大抵失敗する。そして、それがわかっているから、新しい対人行動には慎重になる。行動しないという行動が無色なら良い、色のついた行動からの選択を迫られるとつらい。

彼の議論だと、ここから一直線に生得的能力の欠落に持っていく。私はそこは疑問に思っている。幼児を観察していると生得性に注目するのは無理もない。だが、私にとっては、既に大人になってしまった自分の問題である。

疑問に思う理由が、冒頭で述べた異文化の存在。異文化に属す人間の行動はすぐには理解できないものだし、だから文化人類学なんて学問が存在する。日本で生まれ育ったら、ポトラッチをやるようにはならないけど、チヌークとして育ったらやるようになるのだろう。あたかもそれが当然のことのように。個別の行動や、そのもとになる行動能力にはそこまで普遍性はない。

そう考えると、生得的能力は2つに細分化できそう。一つは、身体に直接的に組み込まれた行動能力。もう一つは、事例を受け取って自然に汎化する能力。前者ばかりでなく、後者に問題がある可能性も考えてみた方が良いのではないか。

30年程生きているけど、あいかわらず世の中は理解できない対人行動であふれている。そうしたとき、ポトラッチ、ポトラッチと2回唱え、とりあえず事例として記録しておく。ある程度事例がたまったら、それがどういう現象なのか分析できないかなと思いつつ。