murawaki の雑記

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昆虫とままごと

いわゆる人工知能バブルはまだ続いているようで、大学や大学院*1の入試倍率は高いし、企業からの問い合わせも絶えない。その一方で、知性というものに対する世の中の認識と実態とのずれは解消される気配がない。計算機にとって何が簡単な問題で、何が難しいかは、人間の素朴な感覚と大きくずれている。例えば東大入試を解くなんてのは実は簡単な部類だが、世間では東大に合格するのは賢いと思われている。こうした世間の誤解に乗っかった危ういプロジェクト*2もあった。

昆虫とままごとは、最近私がたとえに使っているネタ。昆虫は下等生物の一例として取り上げているだけで、私が特に昆虫の神経系に詳しかったりするわけではない。言いたいことは、現在計算機で実現できている (あるいは近いうちに実現できそうな) 機能は昆虫のそれのように下等な仕組みだということ。ままごとは、特におままごとというと、幼稚な物事のたとえに使われる。だからこそ私は例に使っているのだが、しかし、私には圧倒的に高度な知性の産物に思えるし、実際ままごとができるロボットを作れる目処は立っていないはず。

昆虫的なシステムの例は機械翻訳ニューラルネットの導入とともに急激に品質が向上したことで知られている。*3質の面で機械翻訳が人間の翻訳者にかなわないとしても、圧倒的なコストの差を背景に、社会が機械翻訳を前提として作り変えられるのではないかと真面目に議論されている。

では、その翻訳器は何をやっているのだろうか? 翻訳器は、原言語の文を入力として受け取り、目的言語の文を出力するというわかりやすいインターフェースを持っている。中身はどうなっているかというと、適当なニューラルネットのユニットを適当に組み合わせてある。その組み合わせ方にはいろいろあるが、そんなことはここではどうでも良い。ともかく、適当な入力刺激を受け取ると、適当な信号がネットワークを流れていって、適当な反応を示す。条件反射的で、熟慮も何もあったものではない。条件反射というと犬を思い浮かべるが、下等さを強調するために私は昆虫を持ち出すことにしている。もっとよい比較対象があるかもしれないけど。

実用的な機械翻訳システムを訓練するには、原言語と目的言語の文の対が大量に必要になる。その数は数百万から数千万。もっと少量のデータをうまく汎化できないのかと思わなくもないが、ともかく、大量のデータで殴りつけると、そんな原始的な仕組みでもだいたい学習できてしまうのである。これは何を意味するのだろうか? 計算機による実現可能性という観点で知性の高度さを捉えなおすと、人間の翻訳者の作業の大部分は、実は知的でも何でもなかったことになる。このように一見知的だが実は知的でない仕事はこの社会のあちこちに転がっているはず。

次はままごと。ままごとは計算機にとって圧倒的に困難な課題。それを確認するために研究の現状を見ておこう。もう2年前になるが、人間とロボット (チャットボットなどとは違い、現実世界を動き回るもの) とのコミュニケーションに取り組んでいる研究者の講演を聞く機会があった。そこでは、人間が対話を通じて教示することで、ロボットが物の名前を学習するという課題に取り組んでいた。名前というのは難しいもので、普通名詞か固有名詞か、普通名詞だとすると、物体のどんな要素がその名詞と結びついているかが問題になる。ところが、その研究では、名前の固有名詞性を仮定していた。特定の研究がどうというのではなく、人類の研究の現状がその程度なのだろう。

それとくらべると、ままごとは何段階も高度。Google Images でままごと検索すると気合の入った既成品ばかり出てきて良くないのだが、もっと素朴な設定で、例えば薄く細長い木の板を包丁に見立てたとする。見立てるというのは実に高度な知的営み。現実にある板が板であることはもちろん認識している。そこに包丁という虚構の概念を紐付ける。しかもそれが虚構であることを認識し続ける。その木の板で何かを切る動作をしたとする。切る機能は虚構であるところの包丁に由来する。現実には切れていなくても、仮想的には切れていることなっている。つまり現実に関する認識と虚構に関する認識が紐付けられた状態を維持したまま更新されていていく。

ここまででも、計算機上での実現の困難性に打ち震えるほかないのだが、ダメ押しに、複数人でのままごとを考えてみる。複数の参加者が難なく意図を共有できているように見える。しかし、現実に関する認識の共有はともかくとして、虚構に関する認識がなぜ自然にできてしまうのだろうか? ままごとに限ると、調理に対象が限定されて意図が推測しやすいと思われるかもしれないが、ごっこ遊びは幼児に広く観察される現象である。模倣の対象が一般に確立されたものでないかもしれない。初見のごっこ遊びであったとしても、意図の共有に大きな困難があるようには見えない。そこにはおそらく生得的な何かがある。そして、それは人間をその他の動物とわける何かである。

さて、私は日本の大学に所属する研究者であり、懸案は年々悪化する環境のなかでどうやって生き残り、自分が重要と信じる研究を続けるかである。安易な生き残り策として挙がるのは、知的なようで実は知的でない問題を解き、高度な人工知能として喧伝し続けること。もちろん本当に重要だと思っているのはままごとの方。しかし、すぐに実用化して金になりそうな研究以外に何の価値もないと思われている以上、ままごとの研究をするには何らかの cover story をでっちあげなければならない。どういう話がよいだろうか?

*1:それぞれ工学部情報学科と情報学研究科知能情報学専攻を指す。

*2:実働の研究者はもちろん実態がわかっていたにも関わらず。

*3:機械翻訳の研究を横から眺めていると、できる部分はできるようになったけど、できない部分はできないままだし、そこは何ともなっていない印象がある。