murawaki の雑記

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清朝の蒙古旗人


清朝の蒙古旗人 その実像と帝国統治における役割 by 村上 信明 (2007).

八旗蒙古に属す蒙古旗人を17世紀後半から18世紀後半までの期間を対象に考察した本。著者は前々から外藩関係の官制について何本か論文を書いている。本書は一般向けの digest になっているのだろう。全部を読んだわけじゃないから推測だけど。

蒙古旗人は超マイナー。他の人が考察しているのをまず見かけない。清朝の官制一般についても、概説書だと満缺と漢缺がありましたとしか説明しない。蒙古と漢軍はどこに行ったということになるが、そういう疑問にも答えてくれる。

真面目に書評をやってるブログがあった。書評が読みたい人は、こちらの方が参考になるはず。

一点。本書は満洲語史料を使って実態を解明しようとする。モンゴルやチベットに赴いた蒙古旗人官僚の自己認識を明らかにする。この考察自体は新規性があって素晴らしい。しかし、物事は両面から見てはじめて分かるもの。モンゴルの王公やチベット僧が彼らを彼らをどう見ていたかもあわせて知りたいところ。モンゴルは分からないけど、チベットなら文書が残ってそうな気がする。

後は言語がらみの部分。本書によれば、蒙古旗人はモンゴル・チベット統治の担い手となることが帝国から期待されており、モンゴル語能力を求められていた。しかし、モンゴル語の需要は、満洲語と漢語に比べて圧倒的に小さかった。支那と違ってモンゴルもチベットも間接統治だから。

蒙古旗人のモンゴル語運用能力は急速に低下し、早くも雍正年間に表面化した。衝撃的なのは、乾隆帝の1779年の明発上諭。理藩院が作成するモンゴル語が意味をなさず、乾隆帝自ら修正して宣布していたとか、理藩院の作ったモンゴル語原稿を乾隆帝がモンゴル王公に見せたところ、理解できない箇所が多かったとか。そんなに出鱈目で本当に文書行政が成り立つのか。

以前からの私の興味に、翻訳が言語に与える影響がある。清朝の行政文書は満洲語、漢文にモンゴル語の3本立て。年号や実録なども3言語そろっていて合わせ鏡のようになっている。そして量が膨大。前近代でこんなに翻訳しまくっている機関は他になかったのではないか。Europarl もびっくりだ。

一つの疑問は、本当にすんなり翻訳できたのか。翻訳なんてデフォルトではできないもので、対応する表現を整備してはじめてできるようになる。満洲語とモンゴル語は、漢文とは言語的にも文化的背景もまったく異なるから、最初の隔たりは大きかったはず。ただし、モンゴル語満洲語と結び付けられていたようだから、漢文との翻訳が問題となるのは満洲語だけか。本書が言うように、モンゴル語は需要が小さかったというから、モンゴル語から攻めるのは筋が良くないのだろう。しかし、蒙古旗人のモンゴル語のまずさを知った今、逆に地方のモンゴル人の満洲語能力が気になる。

しかし、翻訳の影響を調べるのは難しい。単語レベルで、例えば清文鑑に新造語が入っているというような議論ならできるだろう。一般には微妙な言語運用の問題だから、定性的な研究はネイティブじゃないと厳しい。定量的な研究は電子化されたテキストが大量にあればいけそうな気がする。しかし、画像ならともかく、テキストとして電子化するのは大変だろう。文単位とは言わないでも、記事単位ぐらいで alignment を取るのも大変そうだ。